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発行日 平成15年10月15日 教授 佛淵孝夫

 股関節だより第13号をお送り申し上げます。
 患者さんが減る気配が無いのは嬉しくもあり、悲しく(?)もあります。斯くも多くの股関節を病む患者さんが居られるのか!当分は忙しい毎日を強いられそうです。最近では1日に4人ないし5人の手術が日常になりました。出来るだけ手術待ちの期間を短くしたいと思いますが、それでも7か月待ちの状態です。
 今回はご要望の多い、2つの企画を設けました。一つは医療費に関するものです。収入や保険の種類、公費の適用の有無、年齢などによって異なりますが、諸外国と比べると格安であると言えます。この医療保険制度がいつまで継続できるかは定かではありません。いずれは自己負担の増加や、民間保険への加入が必須となる時代が来ると思われます。もう一つは人工股関節の可動域です。脱臼しないためにも出来るだけその仕組みを理解していただければ幸いです。
 「谷やん」さんの連載も絶好調(?)でこの先が楽しみでもあり、心配でもあります。リハビリのやりすぎにはくれぐれもご注意ください。ご意見、ご要望などありましたら、遠慮なく事務局宛ご連絡いただければ幸いです。出来るだけご要望にお答えしたいと思います。
 先日佐賀大学の公開講座で講演した「再生医療と人工臓器の現状」についてまとめてみました。耳慣れないES細胞や生物の進化の話など、股関節とは直接関係ない内容もありますが、手術を受けられた皆様はいずれもこのような考え方に基づく治療を受けておられます。

再生医療と人工臓器の現状

Ⅰ.はじめに
 私たちのまわりには「再生」をキーワードにした言葉が数多く見られます。日ごろのテレビ番組でも「環境の再生」、「地球の再生」から「経済の再生」、「日本再生」まで、「再生」をテーマにした特別番組が目白押しです。
 最近の生物学・医学分野では、分子生物学、遺伝子工学といった新しい学問が発達し、クローン動物や遺伝子操作による新しい治療薬などが誕生しています。さらに受精した卵から全ての細胞の元になる「胚幹細胞:ES細胞」から必要な細胞、組織、器官を、そしてその機能をも再生させようとする試みがなされています。これらは単に学問としてのみではなく、実際の病気や障害の克服に役立ち、産業化への期待も高まっています。
 科学技術、とくに生命科学の際限のない進歩は、一方で私たちの生命観や「人間とは何か」といった根源的な問題をも考えさせられます。私たちは今、「生命倫理」が問われる時代に生きています。

Ⅱ.再生医療とは
 再生医療の目的は一言で言えば「人間の再生」です。病気や事故で失われた体の細胞、組織、器官を再生し、その機能を回復させ、人間がより人間らしく生きることを可能にすることです。したがって、医療に「再生」をいう概念を最初に持ち込んだのは「リハビリテーション」で、義足や装具、その後、人工血管や人工関節などの工学的なアプローチに始まりました。次いで材料工学の進歩により人工腎臓(血液透析)が普及しました。一方で、輸血や皮膚移植、臓器移植などの「移植医療」が発達し、生きた細胞を使った狭い意味での「再生医療」が始まっています。
 ここでは再生医療を広い意味から捕らえ、最新の胚幹細胞を用いた狭い意味の「再生医療」から「移植医療」と「人工臓器」をも含めた広い意味の「再生医療」についてお話いたします。

Ⅲ.生物における組織の再生
1)生物とは
 「生物とは『生きもの』のことで、一般に栄養代謝・運動・生長・増殖など、いわゆる生活現象を表すものとされるが、増殖を最も基本的属性とみなすことも可能。」とされています。要するに、動物から植物、菌、原生動物、細菌やウイルスまでの「生きもの」で、子孫を増やすことの出来るものです。

2)細胞と組織、臓器、器官
 細胞とは生物の基本単位で「細胞が生物の構造と働きの基本単位になっている」とされ、これを細胞説と呼んでいます(図1)。細胞は分裂することにより増殖していきます。生物には一個の細胞からなる単細胞生物とたくさんの細胞からなる多細胞生物があります。単細胞生物では一個の細胞の中に栄養代謝や運動を担当する小器官があります。たくさんの細胞が集まって、一個の固体を作る多細胞生物では特殊な分化を遂げた細胞集団が運動や栄養代謝などを担当する器官を形成しています。
 人間の消化器を例にとると、栄養分の吸収を担当する腸管の腺細胞と呼ばれる特殊な分化を遂げた細胞が集まって腺組織を作り、外側の筋組織などと小腸という臓器を形成します。口から食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門までの消化管に肝臓や膵臓をくわえて消化器という器官を作っています。他に心臓や血管などからなる循環器、骨や筋肉などの運動器や脳神経系や感覚器、皮膚などで一人の人間(固体)が成り立っています。人間の身体は約60兆個の細胞から出来ているとされていますが、それぞれ特殊な分化を遂げた細胞も元は同じ細胞(受精卵)から分化したものです。

3)生物の発生と進化
 一個の受精卵が分割という増殖しながら様々な細胞に分化していく様は、生物の進化と似たところがあります。生物の再生を理解する上で、生物の発生と進化について述べて見ます。哺乳類を例にとれば、オスとメスが交尾して受精が起こると、双方の遺伝子を持つ一個の細胞(受精卵)から細胞分裂により、それぞれの機能と形態を持つ無数の細胞が作られます。このときできた細胞の中にあらゆる細胞に分化可能な胚幹細胞(ES細胞)が含まれています(図2)。
 数十億年まえに地球に生命が誕生したと考えられています。最初は単細胞生物でその後多細胞性生物の植物や動物が現れ、脊椎動物のなかで魚類から両生類、爬虫類、哺乳類へと進化したと考えられています。我々人類の祖先はせいぜい500万年前に出現し、文化らしきものを持ったのは数万年以下です。実はその人類は、母親の胎内で受精卵から誕生するまでに、まるで人類の進化の記憶を辿るがごとく、魚類から哺乳類までの胎児と同じような形をしています(図3)。同じように、カイコの幼虫が羽化して蚕になるさまは昆虫の進化の歴史を辿るかのようです(図4)。


4)生物の再生能力
 生物の再生能力は個体の発生と進化と関係がありそうです。より未熟な細胞(未分化な細胞)ほど、より進化していない生物ほど再生能力が高いと言えます。例にとれば、トカゲの尻尾です。ご承知のようにトカゲの尻尾は切れてもまた生えてきます(図5)。もっとすごいのがプラナリアと呼ばれる生きものです。プラナリアは体をぶつ切りにされても、どの部分からでもまた全身が再生されます(図6)。これは観葉植物が葉っぱや茎などから再生されるのと似ています。いずれも進化していない生物のほうが再生能力は高く、進化の最終段階にあるとされる我々人類の再生能力は最低クラスであることは間違いないようです。
 次に、再生能力は組織や臓器によってその能力が異なります(図7)。一般的に新陳代謝の盛んな組織、つまり絶えず新しい細胞と入れ替わっている組織では再性能力が高いと言えます。皮膚や腸管の表面の細胞がこれに当てはまり、皮膚の細胞は垢となって日々落ちていきます。怪我や手術の際、縫合すれば簡単にくっつきます。反対に脳神経細胞は生まれてしばらくするとそれ以上は増えることはありません。したがって、神経細胞に重大な障害が起こると他の場所の細胞が肩代わりしない限り、その機能はなかなか回復しません。ただし、手や足の神経が切れた場合には神経縫合を行うと回復する可能性があります。神経細胞本体は脳や脊髄の中にあり、神経そのものは死んでいないからで、神経本体から伸びた軸策とよばれる神経細胞の腕の部分が再生するからです。再生に能力のある組織は細胞分裂を絶えず繰り返すため癌の発生頻度が高くなる傾向があります。なお、脳腫瘍は神経細胞そのものの腫瘍ではなく、神経細胞を取り巻く細胞の腫瘍です。


5)胚幹細胞による再生
受精卵からは全ての細胞に分化可能な胚幹細胞(ES細胞)ができることが分かってきました(図2)。

Ⅳ.再生医療と移植医療、
 人工臓器の現状と展望
 再生医療と人工臓器の中間に移植医療があると考えられますが、それぞれの長所を生かしつつ、再生医療によって作った組織の移植やハイブリッド型の人工臓器などによる医療も始まっています(図8)。


1)再生医療
 狭い意味ではES細胞から様々な組織を誘導して障害のある部位に細胞や組織、臓器を再生させ、本来の機能を取り戻すことです。もう少し分化した幹細胞はたとえば、造血幹細胞は既に移植医療の一部として血球細胞(赤血球、白血球や血小板)の再生に用いられています。将来は再生した組織や臓器の移植が考えられています。自分の細胞から再生された組織や臓器には移植時の拒絶反応が無いことと、移植する臓器をもらう相手方(ドナー)の確保が要らない利点があります。
 再生医療技術は人工臓器の分野も飛躍的に発展させる可能性があります。現在まだ研究段階ですが、例えば肝臓の細胞を再生増殖させ、人工肝臓を作ることが可能で近い将来実用段階に入ると考えられています。人工の材質と生きた細胞や組織の組み合わせからなるハイブリッド型の人工臓器は、完全な組織や臓器の再生に先駆けて実用段階にある技術です(図9)。

2)移植医療
 移植は様々に分類されます。誰から貰うかによっての分類では他人から貰う場合(同種移植)、他の動物から貰う場合(異種移植)、自分のものを使う場合(自家移植)に分けられます。他には脳死状態からもらう場合(心臓移植など)、生きているヒトからもらう場合(生体肝移植など)もありますし、保存状態で冷蔵保存や冷凍保存もあります。
 最も普及している移植医療は輸血です。通常は献血による血液が日赤の血液センターから供給されています。輸血した血球はいずれ寿命が来て死滅してしまいます。これに対して白血病などの患者さんに行なわれる骨髄幹細胞移植では「血液の元」を移植するわけですから、血液に含まれる全ての細胞(赤血球、白血球、血小板)が再生されます。
 今後の移植医療は再生医療の一部として、様々な細胞や組織、臓器を生成し移植用になると考えられています。この場合最も大きな課題は細胞から組織や臓器を作る技術が必要なことです。現在様々な自然あるいは人工の材質との組み合わせが工夫されています。

3)人工臓器
 数多くの人工臓器が開発されています(図10)。人工臓器でもっとも普及しているのは人工腎臓(血液透析)です。現在日本で20万人以上が血液透析を受けています。他に人工心臓や人工肺が作られており、手術時や移植までのつなぎとして実際に使用されています。肝臓の細胞と人工の材質を利用したハイブリッド型の人工肝臓も試作されています(図9)。
 工学的アプローチから誕生した人工血管や人工関節は既に企業化され、日常的に使用されるように
なっています。今後ES細胞などを用いた再生医療との組み合わせでこの分野も飛躍的な発展が期待されています。

V.人工関節による関節の再生
1)再生医療による関節の再生
 関節の再生には軟骨の再生が必要ですが、これには現在自分のあまり必要のない部分の軟骨を切り取り、小さくしてモザイクのように移植するやり方と、細胞培養して増やしてから植えつける方法があります。将来的にはES細胞や間葉幹細胞からの軟骨の大量生成が考えられていますが、必要な形に整えることと十分な強度を確保することなどがまだ解決されていません。関節全体の再生はさらに困難です。(以前私は動物を使って関節全体を移植する研究をやっており、その研究で博士号を取得しました。)関節移植は自分の足指の関節を自分の手指に移植する自家移植は実用化されていますが、他人の関節を移植することは拒絶など様々な問題があり実現していません。
 現時点では関節の再生は関節の角度を変える骨切り術か人工関節で行われることが一般的です。最近では国内で年間約10万人に人工関節の手術が行われており、この数は毎年5%以上の割合で増加しています。

2)人工関節の歴史と構造
 約100年前から人工関節の開発は始まっていますが、現在のような形になったのは約40年前で、わが 国で広く行われるようになったのは約30年前です。関節としては股関節、膝関節がほとんどで、その他に肩、肘、足、手指関節があります。材質とデザインの改良が行われ、現在では20年以上の耐用年数があります。材質としてはセラミック、チタンや強化ポリエチレンが使われ、骨との固定には骨セメントが使われてきましたが、最近では骨との固着力が強いハイドロキシアパタイトという物質が使われるようになってきました(図11)。人工関節は人工臓器の中でも医用工学の代表的なものです。今後とも改良が進むと思います。私たちも脱臼しない人工股関節などの開発研究を進めています。
 佐賀医科大学では2002年には390件の人工関節手術が行われ、そのうち股関節が290件で、これは全国1の数です。2003年には股関節だけで390件になる予定です。

3)人工関節の実際
 人工関節の利点は痛みのない、動く関節を再建できることです。年齢とともに関節軟骨は変性し、高齢者の過半数が膝などの変形性関節症になります。
 O脚になり歩行困難になった方でも人工関節手術で変形も治り、歩行も楽になります(図12)。変形性膝関節症は特に原因無く発症し、数も多く、人工関節の対象となる患者数としては膝関節が股関節の10倍程度と考えられています。
変形性股関節症はわが国では先天性股関節脱臼や臼蓋形成不全(股関節の屋根の出来が悪い)が原因として大多数を占めています。その他では高齢者の股関節が突然壊れる急速破壊型股関節症や大腿骨頭壊死症、骨折などがあります。このような患者さんで進行した場合には人工関節置換術が行われます。
 また人工股関節置換術により、子供の頃の結核や可能性関節炎で数十年以上関節が固まったまま動かなかった関節が動くようになります(図13)。子供の頃の股関節脱臼によって足の長さの違いが5センチ以上あった方の足の長さも同じになることもあります。


VI.おわりに
 再生医療はこれまで治療方法の無かった病気や外傷の治療に大きな恩恵をもたらし、今後さらに発展することが期待されています。その一方で「人間とは何か?」、「生命倫理とは?」といった問題が提起されています。人間の胚(受精卵)は既に人格を持つ一人の人間として扱うべきであるというのは多くの賛同を得ています。また、クローン人間や特殊な遺伝子を持つ改造人間を誕生させることには大多数のヒトが反対しています。医療の分野でも21世紀は再生の時代ですが、人間の英知と倫理観が求められる時代でもあります(図14)。