第一編心は決まった
Dr佛淵に会って、心は決まった。新たな人生を歩もう。Drは、我が輩の要望書を片手にゴルフのスイングをした。なかなかいいスイングだ。難を云えば、玉筋がやや高めかな?いやいや錯覚だ。、我が輩の視点が、Drより40㎝も低いからだ。
これは早く手術すべきだ。もっと早く、膝関節が緩む前にすべきであった。パソコンを操り、多くの手術例とその後の患者さんの生活ぶりを見せながら、自身たっぷりに蘊蓄を並べた。我が輩の目は、ダンスを踊っている奇麗な女性に釘づけになった。我が輩もゴルフができる。確信に変った。自信のある人の顔は輝いて、大変いい。全ての心配を解決してくれた数分間であった。我が輩は即決した。半年後のH15.5.6に魔術師のメスに身を委ねることにした。Dr佛淵に巡り合うことになったのは、某大学を受診、説明に納得いかず、セカンドオピニオンの意見を求めての紹介である。
我が輩の股関節君の歴史は永い。中学1年の春、突然痛くなった。1年以上、石膏で腰から足の先まで固められた。2年、留年もした。松葉杖で1時間かけて、山道を通学したものだ。お陰で肩の発達は素晴らしいものであった。足が短い為か、当に逆三角形であった。Drから激しい運動は禁じられたが、在学中、隠れて、敢えて激しい運動をした。全く動かない股関節君を少しでもと、体操、柔道、ラグビーに没頭。ラグビーでは、激しい突進で相手チームの選手を気絶させたこともあった。夜は筋肉痛で、のた打ち回る日々が7年続いた。企業人3年目に柔道を再開、激痛に見舞われた。長崎原爆病院でわが股関節君の変貌ぶりを見た。骨頭は、溶岩の様に肥大変形していた。学生時代の過激な運動で潰してしまっていたのだ。長崎大学に送られ、固定手術を宣告される。目の前が真っ黒になった。決心がつかず、仲人でもある、尊敬する某内科教授に相談。内服で保存療法を行い、解決しない時に、固定手術とアドバイスをいただき、内服での鎮静療法を選んだ。半年後、嘘のように痛みは無くなった。正解であった。外科医から、バイクに乗ることも、車に乗ることも、控えるようにいわれたが、仕事で仕方なく、車にも乗り、ゴルフも人一倍し、クラブチャンピオンにもなれた。ホールインワンも達成した。37年間、やや不自由であるが、自前の足で何とか生活することが出来た。お陰で定年も無事迎える事が出来た。内科教授は私にとっては神様だ。感謝、感謝である。
良いDrに巡り合えることで、人生は大きく変る。我が輩の股関節君にとっては、第二の転機だ。第二の神様、いや、佛さま。Dr佛淵に賭ける事にしたのだ。最近、股関節君の悪化と筋力低下の負の相乗効果で、段々不自由になってきた。悪い部品は取り替え、残された人生を、意のままに送ろうと、心に決めている。人工股関節の寿命は20年だそうだが、我が輩の経済力は10年が限度だ。2倍あるではないか。耐乏生活で10年延ばさねばならぬ。部品交換は魔術師にお願いしても、筋力が弱ければ使い物にならないだろう。鍛えよう。水中歩行で、一日1時間、週4日筋力アップに励んでいる。筋トレ後は、筋肉痛が激しく歩けないが、3ヵ月で効果は出てきた。しかし、孫の誕生で東京生活を強いられた。術前1月半のブランクは大きい。多摩川沿いを1万歩、歩いたら(いや、這ったら)、二日間沈没した。筋力低下は甚だしい。入院まで数日となった。入院3日前に、自前の股関節での最後のゴルフを友人が企画してくれた。東京から帰り、ぶっつけ本番のプレイである。昔の夢は見ない事にしよう。18ホール回れるかのテストだ。当日は、天気もよく、カートを駆使、何とか18ホール回った。スタートから足が痛く、踏ん張りが利かず、スコアは最低だった。キャディーさんはかける言葉を無くしていた。見ていて、我が輩の方が気の毒であった。どんな仕事であれ、サービスを提供する仕事は大変だ。夜は、我が輩の迎賓の間で、地方選の結果予測と、股関節君のお別れ会で遅くまで飲み、大いに沸いた。クラブは暫くお倉入りだ。わが山茶花亭に開設した、高さ10メートルのアプローチ練習場も入院に備えて閉鎖した。芝の除草も済ませた。術後、果たしてゴルフが出来るのか?祈る気持ちである。Dr佛淵のスイングが目に浮かぶ。
Dr佛淵に会って、心は決まった。新たな人生を歩もう。Drは、我が輩の要望書を片手にゴルフのスイングをした。なかなかいいスイングだ。難を云えば、玉筋がやや高めかな?いやいや錯覚だ。、我が輩の視点が、Drより40㎝も低いからだ。
これは早く手術すべきだ。もっと早く、膝関節が緩む前にすべきであった。パソコンを操り、多くの手術例とその後の患者さんの生活ぶりを見せながら、自身たっぷりに蘊蓄を並べた。我が輩の目は、ダンスを踊っている奇麗な女性に釘づけになった。我が輩もゴルフができる。確信に変った。自信のある人の顔は輝いて、大変いい。全ての心配を解決してくれた数分間であった。我が輩は即決した。半年後のH15.5.6に魔術師のメスに身を委ねることにした。Dr佛淵に巡り合うことになったのは、某大学を受診、説明に納得いかず、セカンドオピニオンの意見を求めての紹介である。
我が輩の股関節君の歴史は永い。中学1年の春、突然痛くなった。1年以上、石膏で腰から足の先まで固められた。2年、留年もした。松葉杖で1時間かけて、山道を通学したものだ。お陰で肩の発達は素晴らしいものであった。足が短い為か、当に逆三角形であった。Drから激しい運動は禁じられたが、在学中、隠れて、敢えて激しい運動をした。全く動かない股関節君を少しでもと、体操、柔道、ラグビーに没頭。ラグビーでは、激しい突進で相手チームの選手を気絶させたこともあった。夜は筋肉痛で、のた打ち回る日々が7年続いた。企業人3年目に柔道を再開、激痛に見舞われた。長崎原爆病院でわが股関節君の変貌ぶりを見た。骨頭は、溶岩の様に肥大変形していた。学生時代の過激な運動で潰してしまっていたのだ。長崎大学に送られ、固定手術を宣告される。目の前が真っ黒になった。決心がつかず、仲人でもある、尊敬する某内科教授に相談。内服で保存療法を行い、解決しない時に、固定手術とアドバイスをいただき、内服での鎮静療法を選んだ。半年後、嘘のように痛みは無くなった。正解であった。外科医から、バイクに乗ることも、車に乗ることも、控えるようにいわれたが、仕事で仕方なく、車にも乗り、ゴルフも人一倍し、クラブチャンピオンにもなれた。ホールインワンも達成した。37年間、やや不自由であるが、自前の足で何とか生活することが出来た。お陰で定年も無事迎える事が出来た。内科教授は私にとっては神様だ。感謝、感謝である。
良いDrに巡り合えることで、人生は大きく変る。我が輩の股関節君にとっては、第二の転機だ。第二の神様、いや、佛さま。Dr佛淵に賭ける事にしたのだ。最近、股関節君の悪化と筋力低下の負の相乗効果で、段々不自由になってきた。悪い部品は取り替え、残された人生を、意のままに送ろうと、心に決めている。人工股関節の寿命は20年だそうだが、我が輩の経済力は10年が限度だ。2倍あるではないか。耐乏生活で10年延ばさねばならぬ。部品交換は魔術師にお願いしても、筋力が弱ければ使い物にならないだろう。鍛えよう。水中歩行で、一日1時間、週4日筋力アップに励んでいる。筋トレ後は、筋肉痛が激しく歩けないが、3ヵ月で効果は出てきた。しかし、孫の誕生で東京生活を強いられた。術前1月半のブランクは大きい。多摩川沿いを1万歩、歩いたら(いや、這ったら)、二日間沈没した。筋力低下は甚だしい。入院まで数日となった。入院3日前に、自前の股関節での最後のゴルフを友人が企画してくれた。東京から帰り、ぶっつけ本番のプレイである。昔の夢は見ない事にしよう。18ホール回れるかのテストだ。当日は、天気もよく、カートを駆使、何とか18ホール回った。スタートから足が痛く、踏ん張りが利かず、スコアは最低だった。キャディーさんはかける言葉を無くしていた。見ていて、我が輩の方が気の毒であった。どんな仕事であれ、サービスを提供する仕事は大変だ。夜は、我が輩の迎賓の間で、地方選の結果予測と、股関節君のお別れ会で遅くまで飲み、大いに沸いた。クラブは暫くお倉入りだ。わが山茶花亭に開設した、高さ10メートルのアプローチ練習場も入院に備えて閉鎖した。芝の除草も済ませた。術後、果たしてゴルフが出来るのか?祈る気持ちである。Dr佛淵のスイングが目に浮かぶ。